教授リレーエッセイ

辞職作用 遺伝学 吉森 保

遺伝学
教授 吉森 保

私は大学院を出て以来一貫して、分泌経路やエンドサイトーシス経路といった細胞内物流システム・メンブレントラフィックを研究テーマとしてきた。ここ10年余りは、その中でも特にオートファジーに焦点を当てている。オートファジーはギリシャ語で自己を食べるという意で、日本語では自食作用と訳され、細胞が自己成分をリソソームに輸送し分解・再利用する経路を指す。オートファジーという言葉を最近でこそちらほら目にすることもあるが、私がその研究を始めた頃は細胞生物学領域でも知る人は僅かであった。当時のボスである大隅良典先生(現東工大)と自食作用研究会を立ち上げたときも、「仕事を辞めたくなる作用ですか?」(確かにパソコンでじしょくと入力すると真っ先に辞職と出る)とか「あー、曖昧ってことですね。」(その頃、電化製品でファジーfuzzyというのが流行っていた。ならばオートファジーは、全自動曖昧とでもいうことか。実際の綴りはautophagyなのでfuzzyとは異なる)などと言われていた。講演しても、マクロファージやファゴサイトーシスと間違えられたりして散々であった。そこでなるべく分かり易くしようと、蛸が己の足を食べるイラストを自分で描いてスライドにし、飢えたタコと一緒で細胞も栄養飢餓では自己成分を分解して栄養源にするのだと、説明していた(このスライドはすっかり私のトレードマークになってしまった)。ある日、講演会場で高名な先生に本当に蛸は足を食べるのかと聞かれ、萩原朔太郎の詩にも登場することは知識にあったが実際はどうなのか知らなかったので答えられなかった。不明は恥じて帰ってすぐに調べたところ、本当の話のようで、ただし蛸は飢えたからではなく人間に捕まるなどしてストレスがかかると足を食べるとのことだった。存外繊細な生き物である。ちなみに細胞も、紫外線や低酸素などのストレスでオートファジーを誘導することが判明している。

かくも無名のオートファジーであったが、大隅先生による酵母のオートファジー遺伝子群同定がブレイクスルーとなりこの10年ほどの間にあれよあれよと分野は発展し、臨床との繋がりも見えて来た。ある分野が花開く現場にリアルタイムで居合わすことができ、微々たるものであるがそれに貢献できたことは研究者冥利に尽きると思っている。私はこの日があることを見越して研究を始めたわけではないので、誠に僥倖としか言いようがない。ただ、辞職作用研究会の頃を思い出すと、今の隆盛は何か狐につままれているような、夢のような気もするのである。一昨年にはとうとう漫画にもオートファジーが登場した。少年ジャンプというコミック誌に連載されている、トリコという美食ハンターが敵を倒していくというストーリー(聞いてもなんのことか読者以外にはさっぱり判らないと思うが)で、主人公は、空腹になると、なんと彼の特別な細胞(グルメ細胞というそうな)でオートファジーが誘導されその結果エネルギーを得て敵を倒すのだ。ジャンプを愛読している大学院生が発見し、「先生、オートファジーが大変なことになっています」と息せき切って見せに来たときは笑ってしまったが、いったいどこで作者は調べたのか「オートファジー(自食作用):栄養飢餓状態に陥った生物が自らの細胞内のたんぱく質をアミノ酸に分解し一時的にエネルギーを得る仕組みである」と正確な解説が付いていて感心した(しかも、オートファジーによるエネルギー供給は数分しか持たないと言うオチまでついていた)。私のお気に入りのエピソードで、海外での講演でも毎回紹介している。今やクールジャパンを代表するMangaは国際語のようで、大いに受ける。少年ジャンプは週間で300万部を売り、しかも一般の人が読む、これはNatureやScienceなどに論文を載せるより重要な出来事である、と言うと、ハーバード大薬理学やその他の名だたる場所で爆笑と拍手喝采である(ハーバードの薬理学長には、講義で使うからスライドをくれと言われた)。オートファジーの認知度があがる一方で、最近はまがいものの論文も増えてきて手放しでは喜べない。一時のバブルだと言われぬよう、気を引き締めて地道に研究を進めきっちりとした基盤を作っていかねばならない。

教授 吉森保
生化学・分子生物学講座 遺伝学
遺伝学教室は、初代吉川秀男先生のあと、大久保舜三先生、本庶祐先生、吉川寛先生、長田重一先生から現在へと続き、6代を数えます。現在、当研究室では細胞生物学的研究を行っています。